今日はまた、富岡製糸場ツアーのお話に戻ります。

富岡製糸場【東繭倉庫】編はこちらです。

富岡製糸場【繰糸場】編はこちらです。

富岡製糸場は、明治維新を迎えたばかりの日本政府が

国を挙げて取り組んだ事業で、当初は10名ほどの

フランス人を雇い入れその指導によって営まれました。

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正面入り口を入ってすぐ左脇に建っているのが『検査人館』

生糸の検査を担当したフランス人男性技術者の住居として

建設されたものです。

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こちらの写真は、富岡製糸場の公式サイトのフリー画像になります。

この建物は、建設の指導者として雇われたフランス人

ポール・ブリュナが家族と暮らしていた『ブリュナ館』。

とても立派なこの建物、後に学校としても利用されたことから、

内部は当時とすっかり変わってしまっているそうです。

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こちらもお借りした画像ですが、『女工館』

日本人工女に技術を教えるために雇われたフランス人の

女性教師の住居として建設されたものです。

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こちらは診療所の建物です。

入口には『片倉診療所』と看板が掲げられています。

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今日ご紹介をしました建物は、外観のみ見学が可能です。

明治初期から残っている建物のディテールを

間近で見ることができる機会はそうありませんので、

駆け足での見学でじっくり見ることは叶いませんでいたが、

色々と勉強になる貴重な体験になりました。

昨日に引き続き、富岡製糸場を見学したときの話です。

富岡製糸場、建物の内部へ入れるのは、昨日ご紹介しました

『東繭倉庫』と今日ご紹介いたします『繰糸場』の2箇所です。

写真が繰糸場の外観です。

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繰糸場とは、繭から生糸を取る作業を行っていた場所で、

当時、300の釜が設置され、世界最大規模の製糸工場でした。

生糸を取る作業とは、釜で繭を煮て柔らかくし、

生糸の先端を探し出し巻き取っていくという、

現代では気の遠くなりそうな作業のことです。

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屋根は従来の日本の屋根の組み方の和小屋ではなく、

日本で最初期の斜材が入ったトラス小屋組です。

これによって、内部に柱がない広い空間が実現しています。

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また、釜から立ち上る蒸気は腰屋根から排出しつつ

(腰屋根とは、屋根の一部が一段高くなった造り)

光も差し込む造りになっています。

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当時の日本にはまだ無かったガラスをフランスから輸入し、

東西に高窓を配置した空間には、いっぱいの光が差し込み

作業をしていた工女たちの気持ちも

明るくしてくれていたのではないでしょうか。

*現在保存されているのは、創業時のものではなく、

昭和40年以降に設置された自動繰糸機です。

ツアーの話は、次回に続きます。

昨日は早朝よりどこへ向かったのかと申しますと

世界文化遺産に登録が決定をしました『富岡製糸場』と

愛読誌でもある『JAF Mate』に毎月作品が掲載されている

星野富弘さんの作品を収めた『富弘美術館』です。

これは、神奈川建築士会川崎支部主催の

日帰りバスツアーで、どうしても移動距離が長いため

実際に見学している時間は短くて、

少々心残りな部分はありましたが、

充実した内容のツアーでしたので、何回かに分けて

ツアーの様子をご紹介したいと思います。

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最初にバスが向かいましたのは、富岡製糸場です。

沢山の人、人、人でした。

一番に見学をしましたのが、写真の東繭倉庫。

1Fは事務所や作業場として使用し、

2Fは繭の貯蔵庫として使用されていた建物です。

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建物の設計は当時横須賀製鉄の製図職工として来日をしていた

フランス人のオーギュスト・バスティアンによるものです。

構造は、『木骨造』と言うあまり聞きなれない工法で、

骨組みを近隣の山から伐採したスギの木で組み、

壁にはレンガを積むという構造です。

当時は煉瓦がまだあまりなく、日本瓦の窯で焼いた煉瓦が

使用されているそうです。

この東繭倉庫が最初に建てられたらしく、

後に建てられる検査人館などのレンガになりますと

職人さんの腕が上がり精度が高くなるようです。

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また、この他に使用されている漆喰や基礎の材料も

地元産の原材料によるものです。

それは、1年半という短期間で建物を完成させるために、

材料の入手しやすい立地であると言うことから、

この富岡の地が敷地として選ばれたとことによるそうです。