こんにちは。
葉山・逗子・鎌倉・湘南エリアで無垢の木の注文住宅を建ててきた工務店【松匠創美(まつしょうそうみ)】です。
今日の目次は下記です。どうぞ宜しくお願い致します。
【1】 片付け好きの頭の中 「何を持って生きていくか」
【2】 家づくり雑記帖 「富岡製糸場-2」
【3】 家づくりのいろは 「窓廻り―ケーシング―」
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【1】 片付け好きの頭の中 「何を持って生きていくか」
こんにちは、片付け好きの久保です。前回は、この夏公開予定の『365日のシンプルライフ』と言う映画に触れましたが、この映画では、自分の持ちモノをリセットすることで、人生で大切なものを見つけ出す物語とのことでしたが、今から22年前の1992年に発売された、『TOKYO STYLE』と言う写真集は、東京で生活する若者の部屋を撮りためたもので、バブル期のリアルな生活風景が写されていました。
それから2年後の1994年に話題になったのは、『地球家族―世界30か国のふつうの暮らし』という写真集です。「申し訳ありませんが、家の中のモノを全部、家の前に出して写真を撮らせて下さい」と言って、世界30か国の「中流」と呼ばれる家族の持ちモノとその暮らしをレポートした写真集で、納められた家族写真からは、その国の経済状況や気候風土、文化など様々な事情を読み取ることができ、各々個性的で興味深く拝見しました。
このように洋の東西を問わず、持ち物には生き方がにじみ出てしまうようです。そこで、これからの人生、何を持って生きていくのか。片づけるにあたり、夏休みを利用して、ご家族で話し合ってみるのはいかがでしょう。
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【2】 家づくり雑記帖 「 富岡製糸場-2 」
こんにちは、設計の田中です。
今回は、世界文化遺産に登録される事が決まった富岡製糸場の2回目です。前回は、日本の貿易において富岡製糸工場の果たした大きな役割が伝わればと思い、開業から操業停止までを書きました。今日は富岡製糸場が建てられた当時の様子について書いて行こうと思います。
明治5年(1872年)富岡製糸場が群馬県に完成しました。
その繰糸場の長さは約140.4メートル、幅12.3メートル、高さ12.1メートル、300人が一度に作業できる繰糸器が設置された世界最大規模を誇るものでした。
富岡製糸場の計画の決定は、工場完成の2年前に遡ります。明治3年(1870年)2月、明治維新後の新政府により、西洋諸国に対抗して産業や資本主義を基盤にした近代国家を目指した殖産興業政策の一つとして富岡製糸場の計画が決まります。それまでの手作業による生糸と違い、ヨーロッパ式の機械を導入し、質の高い輸出品となる生糸の生産を全国に展開するためのモデル工場として計画されたものでした。
政府は計画を進めるに当たり、フランスの生糸商社横浜支店にいたポール・ブリュナ(当時30歳)を指導者として雇うことにしました。
ポール・ブリュナは、養蚕が盛んだった長野、群馬、埼玉、他各地を調査して回り、良質な水、広い土地の確保、蒸気エンジン用の石炭の確保が可能、などの理由により群馬県富岡を建設地に選び、建物の設計に当たっては、横須賀製鉄所の大規模な木骨煉瓦造の建築の設計経験があったオーギュスト・バスティアンに依頼し、建設資材の調達は、日本人側の責任者の尾高惇忠に任せフランスに一時帰国します。フランスでは、調査してあった日本人の体のサイズや日本人の作業特性を考慮して、フランス式の機械より小さい特注サイズの繰糸器の注文にあたりました。
また、彼の人選によって生糸検査人、技術者、医務室の医師らも決められていきました。
こうして準備が整いつつあった富岡製糸場は、いよいよ操業開始を向かえようとしますが、「フランス人が工女の生血を採って飲む」と言う噂が流れてしまい、肝心の工女が集まらないことにより遅れる事になります。ワインを飲むフランス人が誤解されていたようです。後に、初代製糸場長の娘を率先して工女として雇った結果、全国から210名が集まることになり、予定より3か月遅れて操業開始となります。
工女達の当時の労働環境は悪いものでは無かったようです。1日平均7時間45分、日曜日はお休み。食費、寮費、医療費は掛からず、給料は技術等級によりますが、4段階中で一番低い等級でも、当時の教師や警察官の初任給と同じくらい、一番高い等級だと3倍くらいだったようです。工女達は出稼ぎのようなものでは無くて、技術習得後に地元に帰って技術を伝達する人として優遇され、フランス式の御洒落やお化粧もしていたようです。連続テレビ小説「花とアン」に出てきたような過酷な労働条件は生糸の生産が民間に移り輸出量が増えてきた頃のこの様です。
一方、工場敷地内の豪邸に住んでいたポール・ブリュナは更に高給取りで、教師や警察官の初任給の100倍の給料を明治政府から受け取っていましたが、創業開始から3年で解雇となり、その豪邸は、義務教育が始まる前に工女余暇学校として使われたそうです。
富岡製糸場に行くと130年前に起きた、新しい国のかたちに突き進む様子や、文明開化で変わっていく生活の様子。そんなことが感じられると思います。
富岡製糸場については、久保のブログでも紹介しています。
設計:久保歩美・田中伸二
松匠創美の「家づくりの考え方」
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【3】 家づくりのいろは 「窓廻り―ケーシング― 」
こんにちは、千葉です。
子どもたちにとっては、楽しい夏休みが始まりました。学童、保育園に通っている我が家の子どもたちは、毎日のように海に連れて行ってもらい、もう真っ黒に日焼けしています。さすが、葉山の学童、保育園ですね。ありがたい限りです。
さて、今日の「家づくりのいろは」は、先週の窓廻りの霧よけに続き、「ケーシング」について勉強していきたいと思います。
建築で使われる「ケーシング」は、ドアや窓を取り付ける際、壁厚の部分に
建具を固定するための枠を、平板で上部と左右に回し、更に壁との区切りとなるように取り付ける部材のことを言うそうです。また、ケーシングという言葉の由来は、英語のCase(ケース=包装、被う)から来ていると言われ、ドア枠と壁の境目を被い隠すものという意味になるようです。
ケーシングはケーシング枠とも言うそうですが、正面から見ると額縁が二重に見えるので、重厚な感じになるようです。
この重厚な感じは、最近のシンプルなスタイルの雰囲気の家には、ないもののように思います。先週ご紹介した霧よけや、ケーシングなどがされている家のほうが少ないのかもしれません。壁に窓のサッシだけが納まっていて、軒の出もないものが多いようです。もちろんケーシングや霧よけをつけるには、費用がかかりますが、デザインともこれらは直結しているようです。
よく見かけるケーシングで、窓のサッシの廻りに平板を貼ってあるものや、窓の両脇にルーバーのついた木製の扉の形をしたものなどが、アクセントとなるようについているのを、目にされたことはありませんか?
窓廻り以外にも、建物の出隅の部分にケーシングされているものもあります。これは、壁に貼ってある部材のつなぎ目を被い隠すためだそうですが、これも意匠的にアクセントをつけるため、つけられているものもあるようです。
休日の涼しい朝夕にでも、お散歩しながら、いいなと思う家があったら是非、窓廻りをご覧になってみて下さい。どんな雰囲気の家が好みなのか見えてくるかもしれません。
本日も最後までお読み下さり、ありがとうございました。
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☆最後までお付き合いいただきまして ありがとうございます☆
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